きれいなホームページを作ろうと思った。美しい写真が良いのか、きれいな色合いのイラストを基調にした方が良いのか、で迷っている。自分が見て美しいと思っても人がどう見るのかが問題だ。
きれいなホームページを作ろうと思い立ったが
さて「きれい」とは何か、とふと考えてしまった。
テンプレートの美しさ、挿入する写真の美しさ、構図の美しさ、文章の美しさ・・・美しさとは何か? 色の美しさ、フォントの美しさ・・・さぁ、何が美しければ、きれいなホームページと見てもらえるのだろう。
では逆に考えてきれいでないホームページとは何か? を考えてみよう。
レイアウトが無茶苦茶、写真の大きさや配置、キャプションの大きさや位置・・・また添付してある写真やイラスト自身が内容に即していない・・・など。
それよりなにより何を言いたいのかよく分からないホームページ・・・自己PRなのか? 何かの宣伝なのか? 友達や周囲の事、か・・・きれいでないホームページは訴求点が絞り切れていない。
とすると、きれいなホームページと言う物は、一目見て、何の為のページなのかが分かる、と言う事なのか。
そういう視点から再度考え直してみた。
すると、なるほど、自分が何を言いたいのか、分からない。
何のためのホームページなのか? 何だか流行に押されて何かweb的な行動を起こさないといけないと言う強迫観念に苛まれていたようだ。
「とにかく何かをやってみよう!」精紳は尊重するが、何の目的もない行動は自分を混乱に陥れる。
陥れてそれでも突き進もうとすると深い迷路に迷い込む。
それはひょっとすると自分探しのラヴィリンス、迷宮かも知れない。自分の持っている美的感覚やセンスが問われる自分探し・・・ここで発見する事は絶望的なうつ状態を招くかもしれない。
また新しい自分を見つけるチャンスかもしれない。 さぁ、このまま先を続けるか、ここで挫折して諦めるか・・・実は私はきれいなものに出会ったことがない。
風景でも絵画でも建物でも生き物でも・・・いや、出会っているのだろうが、それが深く心に宿る事がない。
だから人が「あの時の風景は絶景だったぁ!」とか「あの絵には感動した!」などと言われても、一分後には忘れている状態だ。
一瞬の感動はあるようだが、それが思い出せないし、次に同じような場面に出会っても再び感動がよみがえる事がない。これは異常だろうか? 人は誰でも一度見た感動的な場面をいつまでも覚えているものなのだろうか? そういう私だから「きれい」なホームページなどというものにこだわるのかもしれない。 「きれい」は「きたない」の裏返しだろうか? 「美しい」は「醜い」の反対語だろうか? 「きれい」も「美しい」も何段階ものレベルがあって、人が「美しい」と思うものが私にはそれほどのレベルでない場合やその逆もあるのかもしれない。
だとすると「きれいなホームページ」などただの幻想に過ぎないのだろうか?
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